パレスチナ紛争

パレスチナの地を巡るイスラエルシオニストユダヤ人ら)とパレスチナ人(パレスチナ在住のアラブ人)との関係から生じた紛争を一個の政治問題として扱った呼称。パレスチナ・イスラエル問題と表記することもある。

目次

歴史 [編集]

古称は「フル」、「カナン」という。パレスチナあたりはペリシテ人の土地で、パレスチナという言葉はペリシテという言葉がなまったものと考えられている。紀元前13世紀頃にペリシテ人によるペリシテ文明が栄えていた。しかしペリシテ民族は完全に滅亡した。
その後は紀元前10世紀ごろにイスラエル民族によるイスラエル王国エルサレムを中心都市として繁栄した。
やがて三大陸の結節点に位置するその軍事上地政学上の重要性からイスラエル王国は相次いで周辺大国の侵略を受け滅亡し、紀元135年にバル・コクバの乱を鎮圧したローマ皇帝ハドリアヌスは、それまでのユダヤ属州の名を廃し、属州シリア・パレスチナ (en:Syria Palaestina) と改名した。ローマとしては、幾度も反乱を繰り返すユダヤ民族を弾圧するため、それより千年も昔に滅亡したペリシテ民族の名を引用したのである。この地がパレスチナと呼ばれるようになったのはこれ以降である。
7世紀にはイスラム帝国が侵入してきた、シリアを支配する勢力とエジプトを支配する勢力の間の対立戦争の舞台となった。11世紀にはヨーロッパから十字軍が攻め込んできた結果としてエルサレム王国が建国されるが、12世紀末にはアイユーブ朝サラーフッディーンに奪還され、パレスチナ地の大半は王朝の支配下に入った。16世紀になると、マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国がパレスチナの地の支配者となる。

後期19世紀 - 1920:起源 [編集]

サイクス・ピコ協定。濃い赤はイギリス直接統治、濃い青はフランス直接統治、薄い赤はイギリスの、薄い青はフランスの勢力圏。紫(パレスチナ)は共同統治領
本来は民族紛争ではなかった。第一次世界大戦において連合国側のイギリス同盟国側の一角であるオスマン帝国に対し側面から攻撃を加える意図の下、トルコの統治下にあったアラブ人イエフディ(現地ユダヤ人)やキリスト教徒も含む)たちに対してオスマン帝国への武装蜂起を呼びかけた。その際この対価として1915年10月にフサイン=マクマホン協定を結びこの地域の独立を認めた。
他方、膨大な戦費を必要としていたイギリスはユダヤ人豪商ロスチャイルド家に対して資金の援助を求めていた。この頃、世界各地に広がっているユダヤ人の中でも、ヨーロッパでは改宗圧力を含め差別が厳しかった為、シオンに還ろうという運動(初期シオニズム)が19世紀末以降盛り上がりを見せていた。そこでイギリスは外相バルフォアを通じ1917年ユダヤ人国家の建設を支持する書簡をだし、ロスチャイルド家からの資金援助を得ることに成功した(バルフォア宣言)。
しかしイギリスは同じ連合国であったフランスロシアとの間でも大戦後の中東地域の分割を協議しており、本来の狙いはこの地域に将来にわたって影響力を確保することであった(サイクス=ピコ協定)。
こうしたイギリスの「三枚舌外交」はロシア革命が起こりレーニンらによって外交秘密文書がすべて公表されるに至り公のものとなった。
第一次世界大戦でアラブ軍・ユダヤ軍は共にイギリス軍の一員としてオスマン帝国と対決し、現在のヨルダンを含む「パレスチナ」はイギリスの委任統治領となった。
現在のパレスチナの地へのユダヤ人帰還運動は長い歴史を持っており、ユダヤ人と共に平和な世俗国家を築こうとするアラブ人も多かった。ユダヤ人はヘブライ語を口語として復活させ、アラブ人とともに嘆きの壁事件など衝突がありながらも、安定した社会を築き上げていた。しかし、1947年の段階で、ユダヤ人入植者の増大とそれに反発するアラブ民族主義者によるユダヤ人移住・建国反対の運動の結果として、ヨルダンのフセイン国王、アミール・ファイサル・フサイニー(1933年アラブ過激派により暗殺)、ファウズィー・ダルウィーシュ・フサイニー(1946年暗殺)、マルティン・ブーバーらの推進していたイフード運動(民族性・宗教性を表に出さない、平和統合国家案)は非現実的な様相を呈する。
  • 「パンとワイン」紛争
とはいえ初期において、民族自体はあまり関係がない。衝突は銀行と工業により避けようもなく次第に深まっていくものだった。その主な原因は、オスマ ンから切り離された事で、外国貿易が重要性を増した事にある。そしてイギリスは荒廃した土地を復興させ、輸出農業の生産の増大を計った。農民の多くはアラ ブ人であった。ただし、農業金融を一手に引き受けていたのは二十二年以後増大したユダヤ系銀行であり、製粉所等の加工工業もまたユダヤ人の手にあった。パ レスチナの土地に適していたのはオレンジとリンゴであり、英国に対してはオレンジの輸出が多くアラブ人達は柑橘類を望んでいたが、製粉所含む食品工業のた め銀行は穀物の増産を図っていく。また、葡萄園はユダヤ人の所有にあった。
当時のパレスチナにおいて工業の外国貿易に対する価値は非常に大きい。英国に次いでシリアがパレスチナを助けていたが、ドイツとアメリカもまた工業 生産材の輸出を行っており、二国が合わさればシリア以上で、アメリカには加工した工業品によって貿易のバランスを保っていたため、このバランスを維持する のに工業の発展が不可欠だった。そして、パレスチナの外国貿易に関する諸々の取り決めは、委任統治領という立場にも関わらず、国内有力事業家の組合によっ て決定されていた。事業家の多くが外部からの投資を受けたもの、即ち原住民よりはユダヤ人の移民らが多数を占めており、農業問題への価値観の差異はアラブ 人への一方的な抑圧となり、やがて対立が深まっていかざるを得ない。16年設立のハマシュピールは勢力が大きくなり市場取引を支配し、また英国との連携を 強め、ニールはドイツ人に代わり産業を支配、耕地を購入し所有していった。また人口の増大、特にユダヤ人増大による小麦の需要に基づく土地の疲弊は著し く、39年には1ha辺り480kgの小麦しか収穫できない(英国では2200kg、エジプトでは1630kg)など、問題への期限は迫っていた。

1920 - 1948:イギリスによるパレスチナの委任統治 [編集]

国連による「パレスチナ分割決議」 1947
後にイスラエル首相となるベギン率いるイルグンシャミル率いるレヒ等のユダヤ人テロ組織のテロと、アメリカの圧力に屈したイギリスは遂に国際連合にこの問題の仲介を委ねた。
ユダヤ人の人口はパレスチナ人口の3分の1に過ぎなかったが、1947年11月29日の国連総会では、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家とし、エルサレムを国際管理とするという国連決議181号パレスチナ分割決議が、賛成33・反対13・棄権10で可決された[1]。この決議は、国内の選挙において、ユダヤ人の投票獲得を目当てにしたアメリカ大統領トルーマンの強烈な圧力によって成立している。アメリカ、ソ連、フランス、ブラジルなどが賛成し、アラブ諸国が反対した。(イギリスは棄権)
イスラエル建国を宣言するベン=グリオン、壁の肖像は「シオニズムの父」テオドール・ヘルツル
1948年2月アラブ連盟加盟国は、カイロでイスラエル建国の阻止を決議した。アラブ人によるテロが激化する中、1948年3月アメリカは国連で分割案の支持を撤回し、パレスチナの国連信託統治の提案をした。1948年4月9日、ユダヤ人テロ組織、イルグン、レヒの混成軍が、エルサレム近郊のデイル・ヤシーン村で村民の大量虐殺を行い、その話が広まって、恐怖に駆られたパレスチナアラブ人の大量脱出が始まった。1948年5月イギリスのパレスチナ委任統治が終了し、国連決議181号(通称パレスチナ分割決議)を根拠に、1948年5月14日に独立宣言しイスラエルが誕生した。同時にアラブ連盟5カ国(エジプト・トランスヨルダン・シリア・レバノン・イラク)の大部隊が独立阻止を目指してパレスチナに進攻し、第一次中東戦争(イスラエル独立戦争、パレスチナ戦争)が起こった。

1948 - 1967:中東戦争 [編集]

1949グリーンラインの境界線
勝利が予想されたアラブ側は内部分裂によって実力を発揮できず、イスラエルは人口の1%が戦死しながらも列強からの豊富な物資援助により勝利する。1948年の時点でパレスチナの地に住んでいた70~80万人のアラブ人などが難民となった(いわゆるパレスチナ難民)。パレスチナ人を主とするアラブ人は、「ナクバ(النكبة)」(アラビア語で「大破局」「大災厄」を意味する)と呼ぶ。
パレスチナ難民の発生原因については、当時は、ユダヤ人軍事組織によって追放されたというパレスチナ側の主張とパレスチナ人が自発的に立ち去ったと いうイスラエル側の主張があった。現在では、イスラエルの政府資料や米国の諜報資料が公開され、イスラエル側の主張が虚構であり、大多数のパレスチナ難民 は、ユダヤ人軍事組織による大量虐殺(イ スラエルの歴史学者のイラン・パペによれば、総計2千人~3千人が犠牲になった)、銃器による脅迫、また、ユダヤ人軍事組織による攻撃を恐れて、難民と なったことは、学術的に明らかになっている。現在の学術的な争点は、パレスチナ人の追放が予め計画されたものか、それとも戦闘激化に伴った偶発的なものか という点である。
また、イスラエル建国に伴うアラブ諸国におけるユダヤ人への迫害の増加により、セファルディムなどアラブ諸国のユダヤ人住民40万人がイスラエルに移住し、アラブ諸国に残された財産の大部分は没収された。
1949年2月にエジプトとイスラエルの停戦協定が成立。イスラエルがパレスチナの80%を占領し、残り20%はトランスヨルダンが占領した。エルサレム旧市街はヨルダンに新市街はイスラエルに占領された。ガザ地区がエジプト領となり、パレスチナ難民が押し寄せた。
1950年に施行された不在者財産没収法により、1947年のパレスチナ分割決議から翌年9月までの間に居住地を離れて近隣に避難するなどしたパレスチナ人は家屋・財産を没収されることになった。こうして没収された土地はユダヤ人入植者たちに与えられた。(これが下記の「難民」の「帰還権」問題に繋がる。)
1956年7月エジプトがスエズ運河国有化を宣言し、それを阻止するために10月にイスラエル・イギリス・フランスがエジプトに侵攻し、第二次中東戦争(シナイ作戦、スエズ戦争)が勃発した。アメリカとソ連の即時停戦要求を受け入れ、イギリス・フランスは11月に戦闘を中止した。アメリカの共和党のアイゼンハワー大統領が経済援助の停止という圧力をかけて、1957年3月にイスラエルをシナイ半島から撤退させた。この戦争により、中東の主導権はイギリス・フランスからアメリカ・ソ連に移った。
1964年5月にPLO(パレスチナ解放機構)が結成された。
1967年5月エジプトのナーセル大統領はシナイ半島の兵力を増強し、国連監視軍の撤退を要請し、イスラエル艦船に対するチラン海峡封鎖を宣言した。6月にイスラエルはエジプトを奇襲し、6日戦争(第三次中東戦争)が勃発した。イスラエルをアメリカが支援し、アラブ諸国をソ連が支援した。

1967 - 1993:第一次インティフィーダ [編集]

イスラエルは東エルサレムガザ地区シナイ半島ヨルダン川西岸ゴラン高原を占領し、国際連合安全保障理事会は停戦決議を可決した。11月に国連安保理でイスラエルの占領地からの撤退、中東地域の航海自由の保障、避難民問題の解決などを決議した。
1973年10月にエジプトとシリアがイスラエルを奇襲し、第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争、ラマダーン戦争)が勃発した。アラブ石油輸出国機構10カ国はイスラエルを占領地から撤退させるまで石油生産の5%以上を毎月削減するとの決議を可決し、石油危機が起こった。国際連合安全保障理事会は停戦決議を可決した。
1974年10月 PLOが国連でオブザーバーの地位を獲得した。
アメリカによる和平交渉により1978年9月にキャンプ・デービッド合意が成立し、1979年3月にエジプト・イスラエル平和条約が調印された。
1980年3月1日、国連安保理で、イスラエルが1967年以降、アラブ側の領土を占領し、また入植地を建設した行動を全て無効とし、速やかな撤退の要求を決議した[2]。この時はアメリカも賛成に回ったが(棄権するつもりだったが間違えたと声明)、イスラエルはこの決議を無視した。
1981年、アメリカのレーガン大統領は、ユダヤ系ロビーやイスラエルの反対を押し切って、サウジアラビアに武器を輸出した。1978年4月にシナイ半島がエジプトに返還された。6月にイスラエルがレバノンに侵攻しレバノン戦争が起こった。PLOはベイルートから撤退した。9月にアメリカのレーガン大統領が中東和平案を提示し、アラブ首脳会議でフェズ憲章が採択された。
1987年にイスラエル占領地でパレスチナ人の抵抗運動である(第一次インティファーダ)が発生した。

1993 - 2000:オスロ和平プロセス [編集]

調印後に握手をするイスラエル・ラビン首相とPLOアラファート議長。中央は仲介したビル・クリントン米大統領
1991年10月マドリードで中東和平会議開催。
1993年9月13日調印、イスラエルとPLOパレスチナ人の暫定自治の原則宣言にワシントンで調印(写真参照)(オスロ協定*)成立。その結果1994年5月よりガザエリコ先行自治が開始され、自治政府も組織されはじめた。PLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相、ペレス外相がノーベル平和賞を受賞した。
1996年1月にパレスチナ評議会の選挙が行われた。 その矢先の1995年11月4日に和平に尽力したイスラエルのラビン首相はテルアビブにおいてカハネ主義者のイガール・アミルに射殺された。 イスラエルでは原則として労働党が「和平推進」(エルサレムとヨルダン川西岸の戦略的に重要な土地を併合)、リクードが「和平反対」(パレスチナ全土を併合)とみなされてはいる。しかし、イスラエルがシナイ半島からの撤退に基づく対エジプト和平を推進したのは右派政党のリクードのベギン政権であった。また、パレスチナ暫定合意や対ヨルダン和平を推進したのは左派政党の労働党のラビン政権ではあるが、ラビンは政界で活動する以前はイスラエル国防軍の参謀総長として6日戦争を指導していた。
1996年、イスラエルに対する、アラブ・イスラム原理主義者(ハマースイスラーム聖戦ヒズボラ)によるテロが激化する。
1997年1月17日、ヘブロン・プロトコル、自治拡大。
1998年10月23日、ワイリバー覚書、自治拡大。
2000年7月には、キャンプデービッド2000年サミット 首脳会談後のアラファート議長 イスラエル側の「西岸地区の91%の支配権を認める、ただしこれとは別に西岸地区の1割の面積を当分の間(6~21年)イスラエル側の支配下に置く」とする和平案を拒否した。イスラエル側は「寛大な申し出を拒否した」と非難。

2000 - 2005:第二次インティファーダ [編集]

2000年9月30日、アル・アクサ・インティファーダ(第二次インティファーダ)発生によりPLOとの和平交渉が決裂した。
双方の市民には平和運動や交流活動、イスラエルでの徴兵拒否や予備役兵の赴任拒否などの運動がある。パレスチナ自治政府は和平を進めることを公式方 針としているが、武力の弱さをおぎなうためとしてテロ戦略を採用する武装組織も存在し、若者や女性を頻繁に自爆テロ攻撃に使っている。
一方で、イスラエル政府も占領中のヨルダン川西岸地区に入植者を送り込み、一般市民を不法な領土拡張政策に利用している。イスラエル人の入植者達が パレスチナ人住民のオリーブ畑に放火した後、畑を耕して自分たちの土地として既成事実化している。またパレスチナ人住民はイスラエル軍も放火に加担してい ると証言している。
最近ではパレスチナ人の自爆テロは、イスラエル側が建設した分離壁(下記参照)によって困難になっており、パレスチナの各武装組織はカッサムロケットによる砲撃に重点を移しつつある。その結果イスラエルの民間人に多数の犠牲者がでている。これに対しイスラエル側は戦闘ヘリコプターによる爆撃、ブルドーザーによる住居破壊(イスラエル軍のブルドーザーは、米国キャタピラー社の特注品である)、戦車による砲撃などでパレスチナに反撃している。
また、2002年4月にイスラエル軍のジェニーン地区侵攻でパレスチナ人の虐殺が行われたとパレスチナが主張したが、イスラエルはそれを否定し、国 連の査察受け入れを拒否して国連査察団が現地に入ることなく解体してしまうなど、イスラエルは国連や第3国からの介入を基本的に拒否している。
2002年2月にサウジアラビアアブドラ皇太子がイスラエルが全占領地から撤退すれば、国家として承認するという中東和平の提案をし、6月にアメリカ大統領のブッシュがパレスチナ暫定国家建設を支持し、イスラエルが入植活動を停止し、パレスチナがテロ組織を解体するという中東和平構想を発表した。
2003年4月アメリカEUロシア国際連合の4者により中東和平案のロードマップがイスラエルとパレスチナ自治政府に提示された。10月に国連総会で分離壁の建設中止についての決議が採択された。

2005 - 2008:アッバース時代のはじまり [編集]

アラファト議長(正式には大統領であるが、日本などはまだ国家として承認していないためこのように呼んだ。日本政府の正式な呼称は「自治政府長官」であったが、2006年に「自治政府大統領」に改められた)の死後、2005年1月の自治政府議長選ではマフムード・アッバースが当選した。しかし、選挙中に武装部門のファタハに担ぎ上げられたり、その一方で武装闘争は誤りであったと述べるなどという言動もあったので過激派への対策がどのようになるかは不透明である。
2005年4月には、アメリカのブッシュ大統領がイスラエル首相のアリエル・シャロンとの会談で、2005年8月を目処にイスラエル側がガザ地区の 入植地からの撤退を予定する一方でエルサレムに隣接しているヨルダン川西岸地区最大のマーレ・アドミム地区への入植地拡大を計画していることに対し、「中 東和平の行程表(ロードマップ)に反する」として、強い懸念を示した。シャロンと「約束の地」への思い入れが強い宗教右派の間には対立が存在し、更には入 植者が強い抵抗を示す中で、治安部隊によるガザからの退去作業が8月17日より開始され、ガザの入植地は解体された。しかし、ヨルダン川西岸地区の入植地は明け渡さず、逆に新たな入植地の拡大を進めている。
2006年1月には、パレスチナ総選挙でハマースが第一党になり、3月29日、アッバース議長の元でハマースのハニーヤ内閣が成立した。ハマースをテロ組織と指定するEU、アメリカ、日本などは援助を差し止め、ファタハとハマースの武装衝突が激化するなど、パレスチナの混迷が続いている。
2006年6月27日には、アッバース議長とハマースのハニーヤ首相が1967年の国連停戦決議に基づく国境線の合意(事実上のイスラエル承認)で合意した。しかし、イスラエルはパレスチナ人に対する予防拘禁の強化を図る一方、兵士の拉致を理由に逆にガザ侵攻を拡大。ヨルダン川西岸地区では閣僚を含む立法評議員(国会議員に相当)、地方首長を約80人を拉致し、評議会を機能停止に追い込んだ。カタールは国連安保理にイスラエルのガザ撤退および閣僚等の解放を求める決議案を提出した。しかし、7月13日、米国の拒否権で否決されている。また、同月12日から13日にかけて、日本の小泉純一郎首相はイスラエル、パレスチナを訪問し、イスラエルのオルメルト首相、パレスチナのアッバース議長と会談。しかしハニーヤ首相と会おうとはしなかった。小泉首相はヨルダンを 含めた4ヶ国協議を提案し、それぞれの賛同を得た。しかし、イスラエルにガザ侵攻への自制を求めた件については「イスラエルの立場は明確だ」と退けられて いる。また、ハマース政権成立後では初めて、パレスチナに対する約3,000万ドルの人道支援を発表した。ただし、直接援助はイスラエルの反発に配慮し行 わず、国際連合世界食糧計画などを介した形となる。
その後もイスラエルとパレスチナの断続的な衝突が続いた。11月1日、 イスラエルは再びガザ地区に侵攻。7日までにパレスチナは軍民合わせて50人以上、イスラエルは兵士1人が死亡した。イスラエルは撤退を表明したが、翌8 日すぐに攻撃を再開、ガザ地区北部のベイト・ハヌーンでパレスチナ市民が少なくとも19人死亡し、アッバース議長は「イスラエルは平和への機会を破壊して いる」と非難。ハマースは報復を宣言した。イスラエルは誤爆と主張。事件の解明まで攻撃を中止すると発表したが、パレスチナ活動家の暗殺は続けている。ベイト・ハヌーンの事件について、再びカタールは国連安保理に非難決議案を提出した。フランスなどの要求で、パレスチナ側のロケット攻撃も非難する修正案に改められたが、11月11日、やはり米国の拒否権で否決された(日本は棄権した)。
パトリック・オコナーによると、2000年から2006年11月3日までの、パレスチナ側とイスラエル側の犠牲者数の比率は39:10である。そして、イスラエル諜報機関の元長官アヴィ・ディクターは、分離壁の建設によって自爆テロを90%阻止することが出来たと証言している。[3]実際、自爆テロは未遂の時点で逮捕されているケースが多く[4]、ハマース側が自粛しているのではなく、物理的に自爆テロが出来ない状況になっているという主張である。なお、このような状況下でハマースはロケット砲による無差別攻撃に攻撃を転換したとの指摘もある。
パレスチナ内部でも、米欧・イスラエルの支持を受けるファタハと、ハマースの内部抗争が続いている。2006年にハマースは選挙での多数を根拠に単 独内閣を組んだものの、国際社会は認知しようとしなかった。ファタハとハマースの間で連立政権の交渉が進められたが、両者の抗争で2006年中だけで28 人の死者を出している[5][6]
2007年には、両者の抗争で50人に及ぶ死者を出した。5月16日には、ハニーヤ首相の自宅に何者かの発砲事件があり、5月17日には、ハマースによるアッバース議長の暗殺計画が発覚。5度に及ぶ停戦合意がなされているが、合意の直後に抗争が再開される状況が続いている。6月11日からの抗争は、ハマースがガザ地区を武力占拠したことで、本格的な内戦に突入。アッバース大統領は非常事態宣言を出し、内閣の解散を宣言。イスラエルや米国は、ハマースを排除したファイヤド政権を正式な交渉相手と認めた。6月20日、アッバース大統領は「人殺しのテロリストたちとは対話はしない」と、ハマースを相手にしないことを表明した。
平行して、イスラエルによる攻撃も続いている。4月24日、 ハマースはイスラエルによるパレスチナ自治区ヨルダン川西岸とガザ地区攻撃への報復として、ガザ地区からイスラエルへロケット弾の攻撃を行った。ハマース 側はイスラエルの攻撃に対する応戦であり、停戦そのものを破棄するつもりはないと主張したが、イスラエルはガザ地区への空襲を繰り返し行い、さらに地上部 隊の再侵攻を主張する声も強くなった。極右政党「わが家イスラエル」党首のリーバーマン副首相は「イスラエル軍がハマース壊滅のための地上作戦に踏み切らなければ、連立政権から離れる」と主張した。
5月20日には、ハマースのハリル・アルハヤ立法評議員(国会議員)宅が空襲を受け、アルハヤはハマースとファタハの停戦協議のため不在で難を逃れたが、8人が死亡した。イスラエル側はアルハヤを標的にしたものではなく、付近にいた武装集団を狙ったものと主張した。5月21日、 パレスチナ側の攻撃でイスラエル人1人が死亡すると、イスラエルのリブニ外相は共同記者会見で「停戦は幻想で、ロケット弾はハマースが平穏に乗じて武器の 密輸を行った結果だ。われわれはハマースと戦い続ける」と述べた。また、同国のアビ・デヒテル警察相は、ハマースの事実上の最高指導者であるハーリド・マ シャアルについて、「彼の存在は正当な標的である以上だ。困難な使命ではあるが機会さえあればいつでも、彼を我々の前から消すことだろう」と暗殺を公言し、さらにハニーヤ首相の暗殺についても「(イスラエルに対する)攻撃命令を出している者の中にハニーヤが連なっているならば、彼も正当な標的となる」と実行に含みを持たせた(「警察相、ハマース最高指導者の殺害を予告 - イスラエル * 2007年05月21日 20:10 発信地:イスラエル」)。
さらに、5月31日、ユダヤ教スファルディーの前首席ラビであるモルデハイ・エリヤフは、オルメルト首相に「ユダヤ人の戦争倫理によると、個人の不道徳な行為について、市全体が集団的な責任を負う。ガザではカッサムロケットの発射を止めないから、すべての人口に責任がある」と主張する手紙を出し、シナゴーグに内容を配布した。パレスチナ『エレクトロニック・インティファーダ』紙のアリ・アブニマーは、「イスラエルでこの類のパレスチナ人に対する大量虐殺をそそのかす憎悪が語られるのは珍しいことではない。では、ムスリムやパレスチナの指導者がこのようなことを言ったらどうなるか。イランアフマディネジャド大統領が伝えられたところでは、イスラエルを取り除くことを述べたときに、国際社会がどう激しく抗議をしたかを私たちは知っている。イランのアフマディネジャドを非難して、ご機嫌取りをしていたすべてのEU官僚は、このイスラエルの前首席ラビに対して、同じような強く、公的な立場を取るのだろうか?」と批判した。
6月28日、イスラエルはガザに地上部隊を侵攻させ、軍民合わせて少なくとも12人を殺害。さらに、15歳から50歳の男性に家から出るように命じ、町の広場に集めさせた。
11月27日、米国の仲介で開かれた中東和平国際会議において、ブッシュ米大統領、オルメルト・イスラエル首相、アッバース・パレスチナ自治政府議長は和平交渉再開を確認した。だが、イスラエルは交渉再開を表明する一方、連日ガザ地区の攻撃や空襲を行い、11月30日には、ガザ再侵攻の準備が整ったことを発表した。
2008年1月、ブッシュ米大統領はイスラエル・パレスチナを歴訪。1月9日にはイスラエルでオルメルト首相と会談し、1月10日に は初めてパレスチナを訪問し、アッバース議長と会談した。ブッシュ大統領は、イスラエルの入植地について「1967年に始まった占領を終結させる必要があ る」と述べ、またパレスチナ自治区を入植地が分断している現状について「スイスチーズ(穴あきチーズ)ではうまくいかない」と批判した[7]。一方、パレスチナに対しては「テロとの戦い」の継続と、ハマースからのガザ地区奪還を要求した。
しかし、イスラエルのガザ地区攻撃については「パレスチナ領域がテロ組織の天国になってはならない」と理解を示し、イスラエル領への帰還を望むパレスチナ難民についてはこれを認めず、保証金で解決する考えを示した[8]。 入植地についても、具体的にまとまったのはイスラエル政府が違法とする入植施設の撤去を約束したことだけで、既存の入植地・検問所については追認する考え を示すなど、イスラエルに有利な現状を追認するに留まった。『東京新聞』『中日新聞』は、これを「イスラエルの『独り勝ち』」と評した[9]。パレスチナではブッシュに抗議するデモが行われ[10]、イスラエルでの世論調査では、和平の進展に懐疑的な意見が多数を占めた[11]
並行して、ハマース側はイスラエルをロケット弾で攻撃し、イスラエルは報復にガザ地区を攻撃。1月15日にはガザ市街に侵攻し、民間人5人を含む17人を殺害した。ハマース側は、イスラエルの集団農場(キブツ)で作業していたエクアドル人ボランティア1人を殺害した。1月18日に は、イスラエルの空襲でガザにある内務省ビルが破壊された。1月の間に、パレスチナ側からは少なくとも96人の犠牲者が出た。イスラエルのバラク国防相は ロケット弾攻撃の報復にガザ地区の完全封鎖を指示し、国連の援助車両も閉め出した。燃料の供給が止まったため、ガザ地区唯一の発電所は操業不能となり、ガザの電気の1/3(イスラエル側の主張によれば、1/4)が供給できなくなった。また、食料などの生活必需品も、イスラエルの兵糧攻めにより深刻な状況となっているという[12]。17日には、国連の潘基文事務総長が「パレスチナ人による襲撃の即時停止、ならびイスラエル軍の最大限の自制を求め」る声明を出したが[13]、イスラエルとハマースはこれを無視した。
2008年2月28日、来日中のオルメルト首相は、コンドリーザ・ライス米国国務長官と会談し、同日帰国した。オルメルトは、攻撃の自重を求めるライスに対し、「脅威が去るまでは(攻撃を)続ける」とこれを拒否した。また、2月29日、イスラエルのマタン・ヴィルナイ国防副大臣は、「カッサムロケット弾がさらに撃ち込まれ、遠くまで着弾するようになれば、パレスチナ人はわが身のうえに大規模なהשואה(shoah、ショアー、ナチスによるユダヤ人大虐殺を意味する)を引きよせることになるだろう。というのは、我々は防衛のために全力を使うからだ。」[14]と述べ、ハマースが攻撃を止めないならば、パレスチナ人を大虐殺すると脅した。この発言にイタン・ギンツブルグ国防副大臣などは、「ショアーは災害を表す普通名詞で、ジェノサイド(大量虐殺)を意味しない」[15]と火消しした。ハマースは、この発言に「(やはりイスラエルは)新しいナチス」であったと反発した。
3月1日、 イスラエルはガザ地区への地上部隊の侵攻を本格化させ、この日だけでパレスチナ側に61人の犠牲者が出た。イスラエル軍は、これを「暖冬作戦」と称してい る。イスラエル軍が、ハマースのロケット弾攻撃による死者が出たことを理由に攻撃を激化させた2月27日以降、ガザ地区からひとまず撤退した3月3日までの6日間に、パレスチナ側は116人(約半数は非戦闘員)、イスラエル側は3人(1人は非戦闘員)殺害されている。3月2日、 国連の潘基文事務総長は、イスラエルに作戦中止を要請し、またハマースのロケット弾攻撃を「テロ行為」と批判した。しかし、イスラエルのオルメルト首相は 「テロとの戦いをやめるつもりはない」と作戦継続を宣言し、これを拒否した。同日、パレスチナ自治政府のアッバース大統領は、ガザ侵攻を止めるまで和平交 渉の中断を発表した。
3月3日、イスラエル軍はガザ地区から撤退し、ハマースは勝利宣言を出した。しかし、オルメルト首相は「寛大な措置を施す時期ではない。(パレスチ ナへの)応戦を続けるが、応戦は具体的な作戦や日時に限ったものではない」と再侵攻の意志を示し、さらにあるイスラエル政府高官は、3月4日と5日にライス米国務長官がイスラエルとパレスチナを訪問する予定に触れ、「(ライス)長官の訪問に合わせ、二日間の中休みを取っただけ」と言った[16]。 3月4日夜、イスラエル軍は戦車で再侵攻を行い、武装勢力幹部宅を襲撃し、幹部を殺害。ライス米国務長官は、アッバース大統領に対し、ガザ侵攻中止は和平 交渉再開の条件にはならないとの見解を示し、またイスラエルのガザ侵攻については、「自衛の権利があることを理解する」とこれを容認した。アッバースは、 和平交渉の再開は認めたが、双方の見解の相違もあり、具体的な日程の見通しは立っていない。イスラエルは、「暖冬作戦」の第2弾として、都市に隠された武 器捜索を予定しているという。
3月6日、イスラエルの神学校に パレスチナ人の男が乱入、生徒ら8人を射殺し、男はイスラエル治安当局に射殺された。神学校は、ユダヤ人入植者の思想的拠点だった。アッバース大統領、米 ブッシュ大統領、潘国連事務総長らは相次いでテロ非難声明を出した。また、ブッシュ大統領は、オルメルト首相に電話で弔意を伝えると共に、「米国はイスラ エルを強く支持する」と述べた。一方、ハマースは「(パレスチナ人)虐殺に対する自然な反応だ」と、犯行を支持する声明を出した。米国は、国連安保理でテ ロ事件として非難声明の採択を要求したが、リビアがイスラエルによるパレスチナ攻撃も非難すべきと主張し、採択は見送られた。犯行そのものについては、ハマースが認めたという報道[17]と、ヒズボラ関係者とする報道[18]があり、情報は錯綜している。
3月10日、エジプトの仲介で、イスラエルとハマースは当面の攻撃自制に同意した。しかし、オルメルト首相は「軍はガザで必要なだけ行動する」と述べており、また停戦の条件として、ハマースはイスラエルのガザ封鎖解除を、イスラエルはハマースの武器密輸停止を要求している。3月12日、イスラエルはベツレヘムなどでイスラム原理主義組織イスラム聖戦の幹部ら5人を暗殺し、イスラム聖戦はガザ地区からロケット弾で報復攻撃した。イスラエルはガザ地区を空襲し、イスラム聖戦の戦闘員4人を殺害した。
一方、パレスチナ自治区内のイスラエル入植地については、3月9日には、イスラエルは「9年前に決定していた」ことを理由に、ギバットゼーブ入植地の拡大を決定した。日本や国連などは、入植地拡大に懸念を表明した。3月31日にも、「拡大凍結の対象外」と主張し、東エルサレム郊外の入植地増設を発表した。ライス米国務長官は、「入植を止めるべきだ」と批判した。一方、イスラエルが設けている400以上の検問所・道路封鎖について、約50箇所で撤去を発表した。
4月に入ってもガザ地区での攻撃は続いており、4月中だけでパレスチナ側は46人以上、イスラエル側は10人の犠牲者が出ている。この他、4月16日には、ロイター通信のファデル・シャナカメラマンが、イスラエル軍の砲撃で殺されている。また、イスラエルは国連人権委員会によって調査のためにイスラエル入りする予定であったリチャード・フォークの入国を、「イスラエルの行いをナチスと比べるなど、調査官として不公平」という理由で拒否した。
6月19日、エジプトの仲介でハマースとイスラエルは6ヶ月の停戦に踏み切った。断続的に衝突は続くもののまだ平和であった。しかし、11月4日、イスラエルはエジプトとの地下通路が掘られているという理由で空襲した。その結果、ハマースは停戦中として攻撃を手控えたが、イスラム聖戦などが報復としてロケット弾を発射し、緊張が高まった。イスラエル系の諜報テロ情報センターは、ハマースは注意深く停戦を守り、一方で他の無法組織(イスラム聖戦などのこと)との衝突は避け、停戦を維持させるための政治面からの説得を試みていると分析している[19]

2008 - 2009:ガザ紛争 [編集]

12月に入り、再度エジプトの仲介のもとで停戦延長をイスラエルは試みたが、ハマースが「イスラエルがガザの封鎖解除に応じなかった」と主張し、延長を拒否したため12月19日失効した。イスラエル側は、当初の合意事項であった「ガザに対する封鎖の段階的解除」は実質行われており、武器兵器などは勿論論外であるが人道物資などを初めとする様々な流通があったとしている。しかし、赤十字社は11月4日以降、封鎖は再び厳しくなり、ガザの状況を「破滅的」と報告した。国連調査官のリチャード・フォークは12月9日、イスラエルが流入を認める物資は「飢餓と病を避けるにはギリギリ」であり、イスラエルによる「パレスチナ人への集団的懲罰は人道に対する罪」であるとの見解を示した。また、ガザ地区からの輸出は、2月以来完全に禁止されたままである[20]
ヨルダン川西岸地区では、12月12日、 イスラエルは主要入植地4箇所を含む西岸の6.8%を自国領として併合し、難民の帰国を5000人にとどめる提案を行った。イスラエルは当初の要求であっ た7.3%から譲歩したが、いずれにせよパレスチナ国家樹立に欠かせない土地であるとして、自治政府は要求を拒否した。
停戦の期限が切れる前から、ハマースはロケット弾迫撃砲などで攻撃を再開。このハマースの度重なるロケット砲によってイスラエル人、一人が死亡した。[21]また、再三のイスラエル側からの警告があったにも関わらず無差別のロケット砲攻撃をハマースはやめなかった。[22] 12月21日、イスラエル軍はガザ地区をヘリコプターで攻撃した。さらに12月27日(現地時間午前11:30、UTC午前9:30[23])、 本格的にガザ地区を空襲し、同日だけで200人以上が犠牲者となった。イスラエル軍は、「ハマースのテロ作戦従事者」および訓練キャンプと武器庫を標的と したと声明を出した。なおイスラエルは武器輸入を止めないハマースを6ヶ月前、即ち停戦期間中からその拠点を調べ、今後起こりうるであろう軍事作戦の計画 をしていた。[24]。両者の交渉を仲介したジミー・カーターによると、イスラエルは非公式に、48時間ロケット弾を発射しないのならば、通常の15%の物資供給は可能だとの見解を示したが、ハマースは拒否し、その結果イスラエルの報復攻撃が始まったという[25]
2009年1月17日までの22日間で、地上戦も含めパレスチナ側で殺害された人数は少なくとも1300人[26]AFP通信、パレスチナ自治政府保健省)を数え、第三次中東戦争以来最悪の数である。イスラエル側の殺害された人数は13人(イスラエル政府筋、ただし味方の誤射で死亡した4人を含む。3人は民間人。ハマース側は、地上戦で10人を殺害したと主張[27])パレスチナ側死者のうち、イスラエル側主張[28]によれば、ハマースの戦闘員500人を殺害、130人を拘束[29]した。ハマースのアブジャアファル(仮名)小隊司令官は、殺害されたのは48人と主張した。家屋全壊は4100棟、損壊は17000棟。地上戦突入後は救急車が現場に向かえず、死者の実数は把握し切れていないという。  国際連合も、攻撃に巻き込まれた。国際連合パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)によると、イスラエル軍のガザ侵攻で、約15,000人の住民が自宅を失うなど難民化し、国連が設けた23箇所の避難所に収容中と発表した。避難所のうち、国連が運営する学校はイスラエル軍の砲撃で、少なくとも48人が殺害された[30]。イスラエル側は、死者に数人のハマース戦闘員が 含まれていると発表したが、UNRWAガザ事務所のジョン・ギング所長は「学校に戦闘員などいなかったし、校内からの攻撃もなかった」と反論した。またイ スラエルは誤爆したことを認めたとジョン・ギング所長は語っているが、イスラエル軍は、誤爆を認めておらず、学校に導火線が張り巡らされているのを軍用犬 が見つけ、ハマースの攻撃があったと兵士が証言している。
1月8日には、UNRWAの輸送トラックがイスラエル軍に砲撃され、1人が殺害された[30]。UNRWAは、イスラエル軍が職員の安全を保証するまで活動を停止すると発表[31]したが、1月9日にイスラエル政府から安全確保の保証が得られたとして活動を再開した。1月14日、UNRWA本部が空襲を受け、支援物資の食糧・医薬品などが焼き払われた[32]。また、3人が負傷した。
1月9日、国連人道問題調整事務所(OCHA)は、パレスチナ自治区ガザ地区のガザ市近郊のザイトゥン地区で5日、イスラエル軍が約110人のパレスチナ人市民を1軒の住宅に集めた上でそこに戦車で複数回砲撃を行い、子供を含む約30人が死亡したと発表した[33]
イスラエルのニシム・ベンシトリット駐日大使は2008年12月28日、「われわれは国民を守るために、ハマースの施設への攻撃実施を決めた。(ハマースが)何らかの対応をとった場合は、われわれも考え直すだろう。しかし、彼らが攻撃を続けるなら、われわれも攻撃を続ける」と主張した。
12月29日、米国家安全保障会議のジョンドロー報道官は記者団に「米国はイスラエルに自衛が必要であることを理解している」とイスラエルの正当性 を擁護し、今回の事態の発端となったハマースの攻撃停止を要求した。イギリス、ドイツもイスラエルの自衛権の発動であると認め、さらにエジプトやパレスチ ナ自治政府さえもハマースの暴挙を非難している。ハマースは自治政府とエジプトの態度に「裏切り者」と反発した。また、エジプト情報当局は12月26日夜、48時間以内の攻撃はないであろうとの予測をハマース側に伝えていたが、ハマースが挙行した警察学校卒業式会場などが空襲の格好の標的となり、死者を増やした。そのため、ハマースは「エジプトに騙された」と非難した。
一方、湾岸協力会議首脳会議は12月30日、イスラエル非難を声明した。国連の潘基文事務総長は29日までに連日双方に停戦を呼びかける声明を出したが、事実上黙殺されている。日本は12月31日、麻生太郎首相が民間人の犠牲に遺憾の意を表明し、イスラエルに対し速やかに攻撃の停止を求めた。
2008年12月30日と2009年1月1日、フランスは人道物資搬入のための48時間の停戦案を出したが、ハマースの継続的なロケット砲攻撃を停止するためには不十分であるとし、イスラエルは拒否した。イスラエルのリブニ外相は、仏サルコジ大統領に対し、「われわれは、ガザの人道的状況をあるべき姿に維持している」と主張した。ハマースは、イスラエルの攻撃停止とガザ地区包囲解除が停戦の前提との見解を示した。
12月29日、イスラエルのバラク国防相はハマースとの「全面戦争」を宣言した。
カッサムロケットのガザ地区での民間人地区からイスラエル南部に向けて発射, 2009年1月
イスラエル軍の攻撃を受けるガザ地区郊外, 2009年1月
ガザ地区の住民は、ハマースの実効支配を理由に、地区外への避難は負傷者の手当などの特例を除き認められていない[34]。2009年1月2日、イスラエルは非パレスチナ人に限り脱出を許可し、約200人が退去した。
一方、イスラエル世論の空襲支持は高く、イスラエル国内のメディア・『ハアレツ』紙2009年1月1日号によると、52%が空爆継続、19%が地上侵攻を支持。停戦支持は20%だった。また、2月に予定されているクネセト総選挙の議席予想では、空爆直前の調査では与党は定数120中55議席だったが、60に伸ばす見込みであるという[35]。このため、攻撃は一説に2006年のレバノン侵攻失敗や自身の金銭スキャンダルを帳消しにしたいオルメルト暫定首相[36]ら与党側が仕組んだ「選挙対策」ではないかとする見方も出ている [37]
1月3日夜、イスラエル軍はガザ地区の地上侵攻に踏み切った。イスラエル軍はガザ地区に三方から侵攻し、ガザ地区を三分断。ガザ地区最大の都市ガザ 市を包囲した。国連の潘事務総長はオルメルト首相に「深い懸念と失望」を伝え、攻撃の即時停止を求めた。パレスチナ自治政府とエジプトも地上戦開始に非難 声明を出した。リビアが国連安保理にイスラエルを非難する停戦決議案を出したが、米英の反対で採決には掛けられなかった。フランスを中心とした欧州連合は 停戦を働きかけたが、イスラエルは拒否。しかし、欧州連合はイスラエルとアッバース大統領の自治政府とは交渉しているが、ハマースを「テロ組織」とする立 場から、ハマースへの直接交渉は一切行っていない。イスラエルも同様である。
米国ブッシュ大統領は1月5日、「自衛を望むイスラエルの立場を理解する」と述べ、イスラエルが目標を達成するまで攻撃を支持する構えを見せた。一 方、米国は停戦の条件として〈1〉ガザを実効支配するハマースのロケット弾発射停止〈2〉エジプトからガザへの武器密輸ルートとなっているトンネルへの対 処〈3〉ガザとイスラエルとの境界にある検問所の再開を提示したが、ハマースはイスラエル寄りであるとして拒否した。ハマースは同日、エジプトに外交団を 派遣した。ベネズエラ1月6日、イスラエルへの抗議として、イスラエル大使を追放した。
1月7日、人道物資輸送のため、イスラエル軍は隔日で3時間の攻撃停止に行なった。これによりガザの住民はごく短時間ではあったが、安堵するときが与えられた。しかし困難な状況は変わっていない。
1月8日の イスラエル軍によるUNRWAへの攻撃は、攻撃停止されているはずの時間帯であった。同日、国連安保理は英国提出による双方に「即時かつ永続的停戦を求め る」決議を採択した。米国は拒否権発動を見送り、棄権した。しかし、当事者は停戦決議を無視した。また、米国の上下院は相次いでイスラエル全面支持の決議 を行った。1月13日、ガザ市で地上戦に突入した。1月14日ボリビアベネズエラはイスラエルと断交した。イスラエル、ハマース双方は実質的にエジプトを介して停戦交渉中である。しかし、イスラエルは一切の譲歩を避けるため、一方的に停戦を宣言した[38]。ハマースはこれを拒否し、その後も衝突は続いたが、1月18日にハマース側が1週間の停戦を表明したことで、一応の終結を見た。1月21日にイスラエル国防軍は、ガザ地区から撤退した。これは、1月20日バラク・オバマのアメリカ大統領就任に配慮したものといわれている。オバマは「イスラエルの自衛権」に理解を示す声明を出し、引き続き米国はイスラエル支持を鮮明にした。一方、ジョージ・ミッチェル元上院議員を中東問題特使に任命したが、米国最大のユダヤ人団体名誉毀損防止同盟エイブラハム・フォックスマン委員長は、「ミッチェル氏は中立だ」「だから心配だ」と不満を口にした[39]
イスラエル南部でロケット弾攻撃のビデオ, 2009年3月
イスラエルはガザ地区の封鎖を継続しており、ハマースはもとより、他の住民も密輸トンネルの再建で対抗しようとしている。これは民生品が長期の包囲で不足しているためである。ハマースは1年の、イスラエルは1年半の停戦案を提示したが、進展は見られない。
双方による報道管制も行われている。特に、イスラエルは報道関係者のガザ地区への立ち入りを一切禁じ[40]アルジャジーラなど従来よりガザ地区に記者が駐在しているマスコミ以外は、直接取材は不可能に近い状況になっている。1月3日の地上侵攻作戦では、規制解除前に報じたイランの記者を逮捕した[41]1月9日には米3大ネットワーク(ABCCBSNBC)やCNN、欧州の主要メディアなどが連名で、現地取材を認めるよう声明を出した。イスラエル最高裁は、外国メディアの現地取材を認める判決を出したが、イスラエル国防軍側はまだ認めていない[42]

2010 - 現在 [編集]

アメリカ合衆国仲介の和平交渉が暗礁に乗り上げ、2010年12月には南アメリカ諸国においてパレスチナの国家承認の動きが起こった[43]
2011年5月15日、ヨルダン川西岸、ガザ地区、レバノンのイスラエル国境付近、シリアのゴラン高原などで、イスラエルの占領に抗議する集会・デモが行われ、国境を越えた参加者をイスラエル軍が砲撃・発砲し、合計で12人が死亡した[44]
9月9日から10日にはエジプト革命で政権が崩壊したエジプトで今度はイスラエル大使館がデモ隊に襲撃される騒ぎがあった[45]
9月23日にはパレスチナが史上初めて国際連合への加盟申請を行ったが、国際連合安全保障理事会においてアメリカが拒否権を行使するとみられている[46]。加盟申請後、アッバース議長は「アラブの春」になぞらえ「パレスチナの春」として独立を求めると声明を発表した[47]。2011年10月31日には国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の加盟国として承認された[48]

海外のパレスチナ問題への対応 [編集]

アメリカはイスラエル・ロビーの活動もあってイスラエルと極めて関係が深く、国連安保理でイスラエル非難決議案が出されると、ほぼ確実に拒否権を発動している[49]。民間レベルでも、2010年2月のギャラップ社世論調査によれば、イスラエルへの好感度は67%で、調査した20ヶ国・地域中上から5番目(上からカナダイギリスドイツ日本の順)と比較的高い。逆にパレスチナ自治区への好感度は20%で下から4番目(下からイラン北朝鮮アフガニスタンの順)と低く、親イスラエル・反パレスチナの国民感情を示している[50]。また、同じくギャラップ社が2010年2月に中東問題に関して行った世論調査では、米国民のイスラエル支持率は63%、パレスチナ支持率は15%を記録している[51]
また、軍事援助も継続して行っている。2007年7月29日にイスラエルのオルメルト首相が明かしたところによると、イスラエルはアメリカに対し、従来の25%増となる、10年間で300億ドル(約3兆5000億円)の軍事援助を取り付けた。従来は年間24億ドル(約2,800億円)(AFP通信米政府、イスラエルに10年で300億ドルの軍事支援に合意 * 2007年07月29日 21:35 発信地:エルサレム/イスラエル」)。この金額は、イスラエルの軍事費の2割以上に相当する。
これは無償援助のみの額で、有償での借款や兵器の売買などを含めると、アメリカによる出資はさらに巨額になる。
ドイツは、ナチスによるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)の負い目もあって、イスラエルの全面支援を表明している。その他の欧州諸国は、パレスチナは未承認だが、米独に比べるとイスラエルに批判的である。
アジア、アフリカ諸国は、大部分がパレスチナを承認している。中華人民共和国はパレスチナを承認する一方、2007年1月10日 - 11日には胡錦涛国家主席、温家宝首相がイスラエルのオルメルト首相と会談するなど、両にらみの態度を取っている。中南米諸国は、2010年12月3日ブラジルが承認したのを皮切りに、承認国が大勢を占めるようになった。
日本は、パレスチナは未承認であり、現在は将来の承認を予定した自治区として扱っている。パレスチナに物資の援助は行うが、ハマースへの対応は欧米 に歩調を合わせている。また、日本の援助で建てられたパレスチナの施設が、イスラエルにしばしば破壊されているが、これについてイスラエルに抗議は行って いない。2008年2月25日、イスラエルのオルメルト首相は来日し、2月27日福田康夫首 相と会談した。福田首相は、「平和と繁栄の回廊」構想の具体化を急ぐ考えを改めて表明し、会談後両国の関係強化などを盛り込んだ共同声明を発表した。ま た、イスラエルが北朝鮮によるシリア、イランへの軍事協力を示す情報を提供することも分かった。しかし、イスラエルのガザ地区などへの攻撃については、日 本は何も触れなかった。翌2月28日、オルメルト首相は、日本の記者クラブの講演で「北朝鮮とイラン、シリア、ヒズボラ、ハマースは悪の枢軸だ」と述べた。北朝鮮はこの動きに反発し、「イスラエルこそ危険な反動勢力」と主張した[52]
報道については、双方が相手に有利な偏向報道を行っていると主張している[53]。イスラエルは、2008年3月12日カタールの放送局アルジャジーラを、ハマース偏向を理由に取材拒否した。さらに、アルジャジーラ本社やカタール政府に懸念を表明する文書の送付や、アルジャジーラ記者のビザ発給制限も検討している。
当事者の宣伝も活発で、インターネットでも互いの関連サイトが多数存在する。2008年12月29日には、イスラエル国防軍によるYouTubeチャンネルが設けられた。

地勢に関する現状 [編集]

2005年5月現在の分離壁のルート
西岸地区に築かれた分離壁

ヨルダン川西岸 [編集]

詳細はヨルダン川西岸地区を参照
パレスチナのヨルダン川西岸地区は、パレスチナ自治政府が行政権、警察権共に実権を握るA地区、パレスチナ自治政府が行政権、イスラエル軍が警察権の実権を握るB地区、イスラエル軍が行政権、軍事権共に実権を握るC地区に分けられ、2000年現在、面積の59%がC地区である。また、イスラエル軍占領地、ユダヤ人入植地は、これらの面積には含まれない(詳細はヨルダン川西岸地区#統治者による区分参照)[54]
イスラエル支配下のパレスチナ人地区では、住居の建設はイスラエルの許可が必要だが、イスラエルの市民団体「ピース・ナウ」によれば、申請の94%が却下される[55]。特にC地区では、2008年2月現在、パレスチナ人の住居は、自分の土地であっても過去10年間1軒も許可されていない。
また、イスラエルは自国領・占領地・入植地と、パレスチナ人居住区とを分断する壁を一方的に築いている。イスラエルは「壁(חומה, wall)」ではなく「フェンス、柵(גדר, fence)」であると主張し、「反テロフェンス」と呼んでいる。壁は、イスラエル領土だけで無く、イスラエル領域外の入植地を囲む形で建設が進められている。第1次中東戦争の停戦ラインでパレスチナ側とされた領域も壁の内部に取り込まれており、事実上の領土拡大を進めている。2004年7月9日、国際司法裁判所は、イスラエルによる占領下にあるパレスチナにおける壁の建設が国際法に違反するという勧告的意見を下した。イスラエル側は現在も壁の建設を続行している(エルサレム周辺地図(英語) 青地がイスラエル入植地、灰地がパレスチナ人居留区、黒実線が壁、灰実線が計画中の壁。全体図は外部リンクからパレスチナ赤新月社による地図参照)
イスラエルは単に壁を作るだけではなく、道路の通行規制も行っている。パレスチナ自治区であるべき地域に、イスラエル人専用道路(パレスチナ人立ち入り禁止)や、パレスチナ人の通行制限されている道路が多数存在している(地図:ヨルダン渓谷沿い入植地群)。

人口の歴史 [編集]

19世紀 - 1948 [編集]

パレスチナの人口[56]
ユダヤ人 アラブ人 合計
1800 6,700 268,000 274,700
1880 24,000 525,000 549,000
1915 87,500 590,000 677,500
1931 174,000 837,000 1,011,000
1936 400,000 800,000 1,200,000
1947 630,000 1,310,000 1,940,000

1949 - 1967 [編集]

イスラエルの人口[57]
イスラエル 合計
ユダヤ人 アラブ人
1949 1,013,900 159,100 1,173,000
1961  ?  ?  ?
エジプト占領ガザ地区内の人口とは 、 ヨルダンのヨルダン川西岸地区占有[58]
エジプトのガザ地区を占領 ヨルダンのヨルダン川西岸地区を占領 合計
ユダヤ人 アラブ人 ユダヤ人 アラブ人
1950  ? 240,000  ? 765,000  ?
1960  ? 302,000  ? 799,000  ?

1967-今日まで [編集]

イスラエルの人口[57]
イスラエル 合計
ユダヤ人 アラブ人
1967 2,383,600 392,700 2,776,300
1973 2,845,000 493,200 3,338,200
1983 3,412,500 706,100 4,118,600
1990 3,946,700 875,000 4,821,700
1995 4,522,300 1,004,900 5,527,200
2000 4,955,400 1,188,700 6,144,100
2006 5,137,800 1,439,700 6,652,896
イスラエル占領ガザ地区内の人口統計と、イスラエルの占領ヨルダン川西岸地区で[59]
イスラエルのガザ地区を占領 イスラエルのヨルダン川西岸地区を占領 合計
ユダヤ人 アラブ人 ユダヤ人 アラブ人
1970  ? 368,000  ? 677,000  ?
1980  ? 497,000  ? 964,000  ?
1985  ? 532,288  ? 1,044,000  ?
1990  ? 642,814  ? 1,254,506  ?
1995  ? 875,231  ? 1,626,689  ?
2000  ? 1,132,063  ? 2,020,298  ?
2006 0 1,428,757 255,600 2,460,492 4,144,849

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